翻訳発表

 この小説は、毎週土曜日午前の「小説を楽しもう!」クラス(2014年4月~6月)で講読し、授業で翻訳したものを講師が訳文を整えまとめたものです。この度、著者の龍一さんから特別に翻訳許諾を頂戴し、学院のホームページに発表できることになりました。一九二〇年代の天津租界から始まり、激動の時代を背景に愛を貫こうとした美しいモダンガールの生涯を活劇風に描いたこの小説を、たっぷりとお楽しみ下さい。
(原文は文芸誌《人民文学》2013年11期所収)

【作者紹介】
龍一:1961年、天津生まれの人気作家。中国作家協会会員。長年にわたり、中国古代生活史や近代都市史、中国革命史を研究し、その博識をベースに抗日戦争の時代を背景にしたスパイものなど、スリルと迫力のエンターテイメント小説を数多く発表し、映像化された作品も多い。ご本人によれば、日本の小説が好きで、多くの示唆を得たという。

*担当講師:樋口裕子 
*受 講 者:大谷恵吾、小林利江、紺野史子、三枝博、中村友彦、山下章の各同学

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モダンガール・エレジー(原題:新女性的挽歌)  作者:龍 一
【第1章】

 一九二七年九月三日、陰暦の己巳(きし)年八月一日火曜日。程君石(チョン・ジュンシー)は朝七時半にやっと帰ってきたが、二階に上がって玉婕(ユイジエ)を起こしたくなかったので、庭師の老安(ラオアン)から剃刀を借り、階下のゲスト用パウダールームで取りあえずヒゲをそりながら、客間のラジオから流れるニュースに気をとられていた。
「ソ連軍と東北軍が、満洲里と綏芬河との前線で激しい戦闘を繰り広げ、双方ともに多くの犠牲者が出ました……」
 張学良は今まさに気が急いてやきもきし、新装備の空軍戦闘部隊をできるだけ早く参戦させたいと夢にまで見ているだろうと君石は確信した。彼が東北軍に売り渡した戦闘機がいったん戦場に投入されれば、備品納入の取り引きは途切れることなく続くはずであった。
「昨晩、英国駐天津総領事・イギリス租界工部局理事長のトニー・ガブリンは、華倫洋行が去年十月に起こした汚職事件は断じて許すことはできず、この洋行の買弁・程君石は厳正な処罰を受けるべきであると公言し……」その言葉を聞くや、君石は野球の盗塁走者のごとく客間に突進し、ラジオのスイッチを切った。
 やつらは、はやり見逃そうとしないわけだな。玉婕の朝のまどろみがこの悪い知らせで破られていないといいのだが――世間のいかなる邪悪な事も、世にも希なる宝物のようなわが愛しき女性(ひと)の邪魔をしないでほしいと、彼は心からそう願うのだった。
 二人の関係において、彼自身ができうることは、すべてほぼ完ぺきにやっているはずだと君石は信じていた。あとは玉婕が心の奥深くであがいている状態――それはモダン女性の自尊心と自由についての葛藤である――から解放されるかどうかにかかっているのだ。困ったことに、妻ある男との同棲生活によって彼女が失ってしまうのは単に自尊心と自由だけではないと彼女は考えているに違いなかった。そして、さらにゆゆしきことに、そのような心の葛藤のために、彼女が性生活に対してまで罪悪感と嫌悪感を抱いてしまうことであった。
「君石、あなたなの?」玉婕の声が二階から遠く伝わってきた。それはゆったりと語尾を長くのばした口調で、彼女の体つきと同じように、思わず愚かな行為におよんでしまうほど誘惑めいた雰囲気を持っていた。
 彼は声のトーンを上げて相聞歌のように応じた。「きみ、急に起き上がっちゃいけないよ。めまいがするからね。」玉婕に対しては、自分は十六歳の少年に戻ってしまい、分別もなく、のぼせ上がってしまうと彼は思うのだった。
 鏡に映った顔を一瞥すれば、三十五歳の男は依然として二十五歳のように見え、色白で聡明で健康的、そして財産もあり、才気と能力に恵まれた、好男子とはかくあるべきという様子である。彼は自分に自信を持っていた。だが、玉婕に対しては自信がなかった。
「よく眠れたかい?」階段を降りてくる玉婕を見て、彼の声は踊るようにはずみだした。彼女はゆったりしたシルクのネグリジェを着ていたが、運動選手らしいしなやかな体型は覆いかくすことができない。手首にはめた透明な翡翠のブレスレットは、彼女の腕にはやや大きめに見える。そのブレスレットは宮中から流れてきた財宝だったが、かつての持ち主は、たぶん太ったお妃だったのだろう。
 玉婕は尋ねた。「港に荷物を受け取りに行くんじゃなかった? どうしてこんなに朝早くに病院からわざわざ戻ってきたの?」
 程君石の正妻は病院を家のようにして住んでおり、昨夜は君石もそこに泊まったのだ。この程夫人が玉婕と自分の夫が同棲していることを知っているのかどうか、ずっと前から玉婕は疑問に思ったままだったので、程夫人に対してはとても好奇心を抱いていた。
「船の到着は遅れることになったから、舞踏会が終わってから行くことにするよ。」君石はそっと玉婕にキスをして彼女の指を握り、恐る恐る身体をピタリと寄せた。
「エスコートしなくていいのよ。どうしても舞踏会に出たいわけじゃないから。」
 玉婕は内心の動揺を隠すように素っ気ないそぶりを見せた。身体が触れたことで彼女は震え、わざと窓の方に歩いていって花壇のバラの花に目をやった。私は愛人失格だわ、と彼女は自分をもてあますのだった。
 君石はやさしく言葉をかけた。「舞踏会は行ったほうがいいよ。夏を越して最初の盛大なパーティなんだから、行かない人なんていないさ。」租界のご婦人たちがこうしたファッションを競い合う舞踏会を逃すとなれば、おそらく彼女たちが金持ちの夫を突然捨てたというよりもショッキングな事件だろう。
 小ぶりで精緻な朝食用の食卓が広々とした明るい張り出し窓のところに置かれており、ドイツのマイセンの磁器に描かれた花模様がこのような天気の中ではあまりにも鮮やかに映えている。9月の風は本来なら爽やかなはずなのに、今朝は湿度が高いせいで、残暑のからりと乾いた暑さではなく、猛烈に攻められるようなじっとりした暑さであった。
 玉婕は腰を下ろし、視線を愛人の顔にとどめた。それは、まるで歴史を読むのと同じく二人の関係を振り返るかのようである。
「何か話でも?」君石はその視線を受け止めた。あたかも美しい詩の心を読もうとするかのように。――彼は玉婕の心にほんの少しでも悩み事があってほしくなかった。たとえ彼が気づいた事がもっとずっと多かったとしても。
「でも、そんなに急ぎじゃないの。」彼女が最も恐れているのはその点、つまり、君石の他人の言葉や顔色を読む能力が群を抜いているということだった。だから、唇まで出かかった言葉をまた呑み込んだのである。
 電話のベルがいきなり鳴り響いた。この種のドイツ製電話機の銅のベルは、死人をも目覚めさせるほど凄まじい。受話器を取った君石は、玉婕の眼差しがすぐさま彼のほうに向けられるのに気づいた。
 受話器からもれてくる声はとても大きく、お茶を運んできた周嫂(チョウサオ)にもはっきり聞き取れた。「こちらは隆盛不動産ですが、鄭さんはいらっしゃいますか。鄭さんは?」
 君石の視線は玉婕の動きにつられて窓辺に移っていく。玉婕は受話器を耳にピッタリと当てて相手の甲高い声をふさいでいだ。顔をやや傾けているので、逆向きに差す光線が彼女の額とほお骨にキラキラとまばゆい光を放っている。「悪いけど、人違いでしょう。もうこの電話に掛けてこないでちょうだい。」と彼女は言った。
「お昼にアイスクリームを食べましょうよ。」玉婕は腰のサッシュを締め直しながらイスに座り、とりあえず話題を見つけて君石に聞いた。この電話が呼び起こした疑念を彼女はすっかりぬぐい去っておかねばならいのだ。
「おバカさんだね。胃腸の調子がよくないのにアイスクリームなんて。用心しないと。」と君石はからかうように伸ばした指を玉婕のほほに当てた。この小さな頭の中にどんな計略を隠していることやら。彼はひそかに案じるのだった。
 彼女も悪戯っぽく口をあけて彼の指を噛もうとしたが、実際に噛みはしなかった。どうやら彼の疑念はいよいよ深まっているらしいから、やはり早く打ち明けるほうがよさそうだ、と彼女は思った。
「ワアッ、旦那様を殺そうとしてる!」と、扉のところで大声がして、二人は顔をぽっと赤らませた。やって来たのは、小さくて華奢な体つきに、硬いブラシのように髪を耳元でバッサリ切りそろえている、小丁(シャオディン)だった。彼女は天津のマスコミで有名な「小さな身体に大きな声」の女性記者で、玉婕の新聞社の同僚だった。
 玉婕はもともと「ブルジョア・モーニング」の編集者だったが、君石が彼女に買い与えたこの洋館に住まうようになってから、非常勤として、さほど緊急性のない「有名人」コラムを家にいて編集するようになったのである。玉婕が仕事を続けることに君石が賛成ではないことを彼女は分かっていたが、かと言って君石は決してあからさまに反対はしないのだった。彼は何事にせよあの困った「分別」から離れられないのだが、それゆえに玉婕の心中はなおさら不安がつのるのだった。
「逃げるなら今だな。」君石は小丁とは気安い間柄でもあり、彼女の大きな声でずけずけと物を言うのに閉口してもいるので、そそくさと出かけていったが、家を出るさいに「昼に迎えに戻るよ」と言い置いた。
「新聞社に迎えに来て。」小丁がこんなに早くやって来て、君石をびっくりさせるとは玉婕も予想外だった。
 同じ家に住んでいても、二人のことをきちんと話し合う機会はなく、彼女は自分の優柔不断ぶりをとても不満に感じていた。だが、いずれにせよ自分から出ていくなど、どう見ても体裁のいいことではなく、結局、君石とは二年近く同棲してきたのだから、簡単に関係を解消することなどできない相談だった。