翻訳発表
この小説は、毎週土曜日午前の「小説を楽しもう!」クラス(2014年4月~6月)で講読し、授業で翻訳したものを講師が訳文を整えまとめたものです。この度、著者の龍一さんから特別に翻訳許諾を頂戴し、学院のホームページに発表できることになりました。一九二〇年代の天津租界から始まり、激動の時代を背景に愛を貫こうとした美しいモダンガールの生涯を活劇風に描いたこの小説を、たっぷりとお楽しみ下さい。
(原文は文芸誌《人民文学》2013年11期所収)
【作者紹介】
龍一:1961年、天津生まれの人気作家。中国作家協会会員。長年にわたり、中国古代生活史や近代都市史、中国革命史を研究し、その博識をベースに抗日戦争の時代を背景にしたスパイものなど、スリルと迫力のエンターテイメント小説を数多く発表し、映像化された作品も多い。ご本人によれば、日本の小説が好きで、多くの示唆を得たという。
*担当講師:樋口裕子
*受 講 者:大谷恵吾、小林利江、紺野史子、三枝博、中村友彦、山下章の各同学
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モダンガール・エレジー(原題:新女性的挽歌) 作者:龍 一
【第3章】
新聞社の編集主幹室はとても狭く、ガラスの壁を隔てて、働き蜂のように忙しくしている編集者や記者たちの姿をかいま見ることができた。「座って話そう。」二人きりのときはいつも、郝大為(ハオ・ダ-ウェイはとても上品で、ふざけたりしない。
「私、非常勤の編集はもうやりたくないの。」と玉婕(ユイジエ)はズバリと切り出した。
「それは、うちにとっては大きな損失だね。」赤青2色の鉛筆が郝大為の指の間で踊っている。
「もう一度考え直してくれないか。一歩を誤れば全てが狂い、立派なコートの生地が靴下用に作り変えられることもあるってよく言うじゃないか。」
彼は、玉婕が君石(ジュンシー)と別れるつもりだという噂をとっくに耳にしていて、玉婕はきっと気が変になったのだろうと思っていたが、今はあまり露骨にふれるわけにいかなかった。
玉婕はすぐさま彼の誤解を正した。「ここを辞めるつもりはないの。何日かしたら、正式な編集部員として働きたいという意味よ。」
郝大為はあきらかに驚きの表情を見せ、ため息をついて言った。「まったくひどいデマだな。君がどこか遠くに行くと言う者までいるんだからね。しかし、程さんが承知するのかい?」彼は心の中では、往々にしてデマにも一部の事実が含まれていると思った。満足を知らないのは女性の天性なのだから。
「彼は承諾するはずよ。」と玉婕はそう言いながら自分でも自信がなかった。
「僕にチャンス到来ってわけだな!」郝大為は机の向こう側で勢い込んで、熱烈な求愛者のように叫んだが、心中では、「信じないぞ、高級車に贅沢三昧の生活を捨てて、外へ踏み出す理由などあるはずがない」とつぶやいていた。
玉婕に電話だと誰かが部屋の外で呼んだので、彼女は「じゃ、それで決定ね」と言った。
「もちろんだよ。あのポストはいつまでも君のものさ。」郝大為は口先ではきっぱりと返事をした。だが、女の人の「決心」など当てにならないものだ。たとえ今日の午後、彼女が突然、君石と一緒に「第二夫人の結婚証明書」を取りに行くと宣言したとしても、彼は驚きはしないだろう。
電話は君石からだった。午前中の工部局の「汚職事件」取り調べでは、尋問はすぐには終わらない雰囲気なので昼には来られない、すまないが舞踏会の前に着替えをするときに家で会うことにしよう、と言ってきたのだ。
それなら午後に打ち明けるしかない。だけど、あなたは最終的に決心をしたの?と彼女は自分に問う。この一歩を踏み出してしまえば、もう二度と元に戻るすべはない。でも、自分がもし怖じ気づいたとして、またどうなるというのだろう。彼女は思わず周囲を見渡してみたが、誰も相談できるような人はいない。君石より頼りになる人など容易には見つからないだろう。
トニーの件を片づけることで君石への恩情に報いることができ、平等な立場で別れを切り出せる。だけど、それにはお金が要る。相当な大金が必要なわけだ。
イギリス資本の香港上海銀行の二階には、貴重な物品を担保にした融資部門があり、ユダヤ人が経営している。香港上海銀行の看板を出してはいるが、銀行とは大家と店子の関係である。ユダヤ人は利益に貪欲であるから、もし彼女がとんでもない高利で10日間の担保を入れたとしたら、担保品を売りに出すのに近い融資が受けられるはずだと玉婕は睨んでいた。バッグに入っている四十数点の宝飾品は先月すでに鑑定の専門家に依頼して詳細な見積もりを出してあったので、成算はあったのだ。
ガラスの扉には飾り文字で「ラビノビッチ質店」と書かれている。窓口にいるのは二十代の若者で、下あごのヒゲを優雅な楕円形に整え、黒いユダヤ帽をかなり後ろに下げて載せているので、すこぶる聡明そうに見えた。おそらく玉婕のバッグに入った大量のアクセサリーに驚いたのだろう、彼の声は震えだしていた。「お客様、お役に立てれば光栄でございます。どのような融資をお望みですか。」
彼は玉婕のためにイスを引き、二人は小さな円テーブルをはさんで腰掛けた。このビルは建ってからまだ3年に満たないが、室内に置かれているのはアンティーク調の桜材の家具、壁には競馬と関連のある小さな油絵か掛かり、帳簿や袖カバーのような殺風景な物はそこにはなかった。それはユダヤ人が培ってきた一種の伝統で、ゆったりとした雰囲気を醸しだすことによって、金を借りにきた人の心を落ち着かせるのだった。
「3万元必要なんです」と玉婕は言った。それは見積もりに近い金額である。
「それは何とも大きな額ですね。」ユダヤ人銀行家の口振りはまるで神を賛美するかのようだ。
全てのアクセサリーは種類ごとにきちんと分けられ、黒いベルベットでおおわれたトレーに並べられた。その壮観な様は、とても現実のこととは思えないほどだ。
「あなたは……?」玉婕は扉に書かれた華麗な飾り文字を指さして言った。
「手前は孫のラビノビッチです。」彼は筒形の拡大鏡を眼に当て、アクセサリーを一点ずつ目の前に置いて子細に点検していく。半時間があっと言う間に過ぎていった。
「申し訳ありませんが、これらの品は全部売っても3万の値打ちはありません。もう少し担保の品を追加するか、借りる金額を少な目にされてもよろしいかと。」
若いラビノビッチは鬢に垂れてきた巻き毛をひねっているが、その姿にとても親しみを覚えさせられる。
「私は3万元必要なのよ。」玉婕の口調に相談の余地はなかった。
ラビノビッチは立ち上がって別室に入っていった。玉婕は周囲をさっと見渡してから、視線を元に戻した。まさに根比べの時であるが、彼女の時間は限られている。午後になすべき二つの事はいずれも時間がかかるし、君石を家で待たせるわけにいかない。舞踏会の前なら、たぶん事をきちんと話せるチャンスがありそうなのだ。
ラビノビッチは古風な出で立ちの老人を伴って出てきたが、二人はそっくりな大きな鼻によく似た鼻眼鏡を掛けていた。
「私の祖父です。」祖父の手首にはユダヤ教の教札が結ばれている。
「お目にかかれて光栄です。」老ラビノビッチの中国語はとても達者だが、少しテンポが遅く、経を唱えるような雰囲気である。「それほどの大金を借りたいとは、よほど急な御用向きがおありなんでしょうな。」
「実は、アクセサリーは売ってしまおうと思って。」玉婕はわざと爆弾を一発放り投げた。
「なんですと? これはまた驚くべきことを。」玉婕の爆弾は予想どおりの効果を見せた。老ラビノビッチの深い感嘆はまるで賛美歌を歌うようである。「このような決心をされるのはさぞかしお心の痛むことでしょうな。あなた様の宝飾のほとんどは博物館の収蔵品クラスの物ですから、これらをお求めになるにはきっと大変な精力を費やされたでしょう。それをここで手放すのは相当な勇気が要りますね。」
「今日、どうしてもお金が必要なんですの。」玉婕はきっぱりと言い放った。
また別の小さな机の上に、卓上スタンド、金床、ペンチなどの工具がずらりと広げられ、袖カバーとエプロンを身につけ老眼鏡を掛けたラビノビッチ老人は再び尋ねた。「高価な宝石は取り外して鑑定しなければなりませんが、よろしいですかな?」
「どうぞ。」鑑定にはしばらく時間がかかるが、長い時間ひたすら待たせることは、融資を受けようとする者に自信を失わせる狙いもあるのだと玉婕は心得ていた。
ルビー、サファイヤ、エメラルド、ダイヤモンド、明かりの下でまぶしく輝く宝石類は指輪やブレスレットやネックレスから取り外され、天秤にかけられ、それからまたルーペで子細に鑑定が行われ、最終的に書類に記録されていく。トレーに残っているのは、玉婕が無駄に過ごした過去の亡骸と贅沢な暮らしの残骸であった。
ラビノビッチ老人は咳払いをして言った。
「恐れ入ります、お客様。あなた様の宝飾類は小売りの価格はともかく、同業者間の売買では確かに3万元の値段がつくでしょう。しかし、このたびは担保になさるわけですから、古くから続く金貸しのしきたりに則り、精一杯勉強させていただいても、1万7千元しか融通できません。」
「その額じゃ全然足りないわ。少なくとも2万1千元にしてもらわないと。」と玉婕は思わずそう言った。
「それは無理なご相談です。」ラビノビッチ老人は宝石を元のアクセサリーにはめ直し始めた。
「神はかつて淫売をする者と高利貸しをする者を神殿から追い出し、彼らを呪いました。」こんなふうに玉婕もかなり弁が立つのだが、君石の前では控え目にするしかないので、しとやかだという評判を得ているだけなのである。
ラビノビッチは長いため息をついて言った。
「ロシアに眠っている祖父が、私がこんなことをしたと知ったら、きっと墓から飛びだしてきて私の尻を思い切り蹴飛ばすに違いない。よろしいでしょう。1万9千元御用立てしましょう。」