翻訳発表

 この小説は、毎週土曜日午前の「小説を楽しもう!」クラス(2014年4月~6月)で講読し、授業で翻訳したものを講師が訳文を整えまとめたものです。この度、著者の龍一さんから特別に翻訳許諾を頂戴し、学院のホームページに発表できることになりました。一九二〇年代の天津租界から始まり、激動の時代を背景に愛を貫こうとした美しいモダンガールの生涯を活劇風に描いたこの小説を、たっぷりとお楽しみ下さい。
(原文は文芸誌《人民文学》2013年11期所収)

【作者紹介】
龍一:1961年、天津生まれの人気作家。中国作家協会会員。長年にわたり、中国古代生活史や近代都市史、中国革命史を研究し、その博識をベースに抗日戦争の時代を背景にしたスパイものなど、スリルと迫力のエンターテイメント小説を数多く発表し、映像化された作品も多い。ご本人によれば、日本の小説が好きで、多くの示唆を得たという。

*担当講師:樋口裕子 
*受 講 者:大谷恵吾、小林利江、紺野史子、三枝博、中村友彦、山下章の各同学

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モダンガール・エレジー(原題:新女性的挽歌)  作者:龍 一
【第4章-2】

 イギリス領事館の官邸はリージェント様式の建築で、赤い壁に高い窓、庭園には樹木が茂り、海河の絶景に面して、行き交う船の帆が絶えず眼前にあった。しかし、トニー・ガブリンと夫人はその官邸を離れ、ミードアーズ通りの小さな家に移り住んでいた。理由は単純で、トニーは貧乏だったからだ。彼の収入は領事官邸の莫大な支出をまかなうには足りなかったのである。
 玉婕(ユイジエ)がトニー宅の門の前に来ると、ほど近い墻子河ではじっとりとした熱暑の中で白い靄が上がっているのが見えた。邸宅の階段の下には小さな芝生のコーナーが二つほどあり、ふんわりと美しく花が咲いている。童話のように愛らしい花壇の中で、巾着草(カルセオラリア)とパンジーが色とりどりにそれぞれの美しさを咲き競っている。イギリス人の天津に対する貢献の一つは、彼らの園芸への熱狂を武器と一緒に運んできたことにある。
 トニー宅の扉には小さな黒板が掛かり、白墨で「召使いは休暇中で夫人は病気につき、用がなければ面会お断り。用があれば自分で開けてお入りください」とある。突如、扉の内側から心臓が止まるかと思うほどの叫びを玉婕は聞いた。
「泥棒だ!泥棒を捕まえろ!犯人を捕まえろ!人殺しを捕まえろ!法があるんだぞ。神の目はお見通しだぞ!もうダメだ。やられた。喉首をかき切られた。わしの金が盗まれた!」
 玉婕は扉を押す手を引っ込めた。その叫び声は強烈に響いてきて、重厚なクヌギの扉が激しく揺さぶられるようでもある。
「ああ、わしの可愛そうな金!わしの可愛そうな金よ!わが良き友よ!誰かがわしのところから、むざむざとお前を奪い取っていったのだ……わしは終わりだ。わしにはもうどうすることもできない。息の根が止まってしまう。死ぬんだ。土に埋められるんだ!」
 玉婕の顔に思わず笑みが浮かんだ。今、トニーはきっと芝居の稽古のときに着る、あの緑色の古いラシャの上着に着替えているに違いない。そうすれば、「アルパゴン」が袖を引き破る場面で 領事閣下が外出の際に着る一張羅の礼服をそこなうことにはならないわけだ。だが、おかしなことに、毎回トニーが芝居にのめり込むたび、夫人のその可愛い子犬「モリエール」がきまって大声で吠えて褒めたたえ、あるいは共演の役者のように応じるのだが、今日はまったくそんな気配がないのだった。
 トニーの声は真に悲しみと怒りに満ち満ちている。「お裁きを願い出てやる。家中の者を拷問にかけてもらう。女中も下男も、せがれも娘も、そしてこのわし自身もだ……、早く来い。お巡りさん、憲兵さん、隊長さま、裁判官さま、責め道具だ、首吊り台だ、首斬り役人だ。どいつもこいつも、片っ端からしばり首にしてやりたい。それでもわしの金が出てこなきゃ、もはや自分で首をくくるまでさ。わしの大事な最愛の宝物よ!」
 あら、最後のひと言はセリフじゃないわね。玉婕は扉を押して入っていった。皮膚が焼けそうなほど身体は熱く、まるで蒸し上がったばかりの饅頭(マントウ)のようだ。空はどんよりとひさしを押しつぶさんばかりに低く、じっとりと蒸し暑い。容赦なく追いつめられるような蒸し暑さである。
 玉婕は中に入り、寝室の入り口が開いているのを目にした。ガブリン夫人が嗅ぎ煙草を握ってベッドにもたれており、領事閣下は客を迎える正装で居間の中央に立っている。左袖の至るところにつかみジワができており、紅潮したアイルランド人の大きな顔が烈火のごとく燃えていた。
 事のしだいはいたって簡単である。夫人のあのお利口で、とても人によく懐く、ちっちゃなジェットランド牧羊犬が今朝どうしたことか姿を消して行方が知れず、そのまま、いなくなってしまったのだ。
 こんな時に犬が消えたとは困ったことだ。玉婕の心にあった大きな重石はますます重くなった。この大事な事態に直面して、トニーは気持ちを落ち着けて話をすることなどできようか。だが、彼女はまた立ち去るわけにもいかないのだ。数か月間、練りに練った計画は、すべてこの日のためなのだから。
「警官たちはさっき帰っていったが、あのバカどもは何の手がかりも見つけられなかった。これは明らかに陰謀、政変であり、無政府主義者の革命なのだ」とトニーはまだアルパゴンの役から抜けていない口ぶりである。
 玉婕は礼儀を守って、ほとんど意識が朦朧としている夫人に先ずは挨拶をしてから寝室のドアを閉め、狭い居間で座る場所を見つけ、トニーを慰めて言った。「モリエールの首には鑑札が付いていますから、迷子になっても心配いりません。きっと謝礼目当ての人が送り届けてくれますよ。」
「家内は中国人が煮て食べてしまわないか案じているのさ。どんなに慰めても役に立たんから、彼女の気持ちを代弁してやるしかないんだよ。」トニーはやっと芝居の役から脱皮して演劇の教授らしくなったが、それでも領事という役人のイメージまでは、まだ相当な距離があった。
「実はちょっと困ったことがあって、ご相談したいんです。」結局のところ、玉婕は事実をありのままに話すことに決めた。
「程君石(チョン・ジュンシ)ーに関する案件です。先生はイギリス政府の天津における全権代表であり、また裁判所の裁判官でもありますから、先生の意見しだいですべてが決まるのです。」
「君の、あの金持ちの愛人が君を差し向けたのかね?」トニーは情報によく通じていた。総領事という立場は、おのずと現地の情報を取るスパイのボスを兼ねているわけだ。
「いいえ、私が自分で決めたことです。」玉婕は毅然とした態度である。
「こういう事は情に訴えても役に立たないよ。君のあの愛人がもし私個人を傷つけたのなら、彼を許すことはまったく構わない。だが、彼は大英帝国の尊厳を傷つけたんだ。これはオフィシャルな事だ。」
「おっしゃるほど重大なことでもありませんでしょ?」玉婕は難しい事態に備えてきていた。
「政治問題だよ。植民地の政治だ。大変厄介なことだ。」トニーは虚栄心にひかれて、この不運な総領事になったことを後悔していた。
 玉婕は話題を変えた。「そういえば、香港道を西に延伸する計画が取り消されたそうですが、本当なんですか?」
 トニーはイギリス租界の香港道の西に小さな土地を持っていたが、それは彼の唯一の不動産であり、もし香港道が西に延びれば、この土地は必ず値上がりするはずだった。
 トニーはにわかに声を落とし、だみ声で言った。「本当なんだよ。土地を売って借金を返すのが私の最後の望みだったが、今やその希望も消え失せてしまった。他の連中は中国に来てひと財産を作って帰るのに、私はここで破産するんだ。帰国して友人たちが知ったら、笑い者にされるに決まってる。」
 玉婕はこっそりと置き時計を盗み見た。ちょうど午後4時半。イギリス人は時間を厳守するから、彼女が約束したその人物がやってくる時刻だ。彼女の胸はドキドキと震え、この計画がうまく成功するように切実に祈るばかりだ。
 誰かがドアを何度かノックし、黒板に書かれた指示に従って勝手に入ってきた。それは領事閣下の弁護士である。
「また小切手が不渡りになったのかね?」トニーは弁護士の姿を見て、いささか緊張し、声を低く押さえた。明らかに隣の部屋にいる夫人に気を遣ってのことだ。
 弁護士は軽くうなずいた。頬に真一文字に張った威厳のあるヒゲは、二本の古びたササラが載っているようだ。
 トニーは両手で頭を抱え、イスに倒れこんだ。演技ではなかったが、演劇的効果は強烈だった。
 玉婕は座ったまま動かなかった。弁護士は彼女の手を取りヒゲでそっと撫で、手に接吻する挨拶に代えた。それからサイドテーブルを引き寄せ、パンパンに膨れたカバンをその上に置いて、イスを引いて腰掛けた。
 弁護士は言った。「先ずは勘定を清算してみましょう。奥様はご不在でしょうね? いえ、ご在宅でも構いません。いずれ明るみに出ることですからな。」カバンに入っていた数冊の分厚い帳簿が並べられ、弁護士は片眼のレンズをメガネにはさんだ。
 トニーは軽く手を振り、唸るように言った。「手短かに言ってくれ。」
「簡単に申しますと、あなたのロンドンにおける証券トレーダーが先ほど決算の明細を送ってきました。この前の数回にわたる債権売買のさい、あなたの頑固な主張のせいで元本割れの損失が出たそうで、20日以内に差額の380ポンドを補填しなければなりません。また香港金市場での投機では2150ポンド余りの損を出しており……本日までのところ、奥様の持参金3000ポンド、さらにあなたの年金と不動産を担保にした1600ポンドは全部損失として消えたことは申すまでもありませんし、数か所で総計3900ポンド余りの負債があります。ただ、これには奥様が商店でお買い物された付けの代金は含まれていません。」
 その金額は中国の銀元に換算すると、二万元に近い。先週、弁護士が玉婕に嘘を言わなかったことが分かった。
「そうなると、今住んでいるこの家の家賃も払えないわけかい?」トニーの赤ら顔が暗く曇ってきた。
「もしお金が工面できない場合は、領事の任期満了後、おそらく直接、債務者監獄入りになります。」弁護士の言葉には一部のすきもなく、同情心はこれっぽっちもなかった。しかし、彼はすぐさままた話題を転じて言った。「ですが、良い知らせもあります。ある慈悲深い御方が私を訪ねてみえまして、あなたに資金援助をしたいと申し出てこられました。これこそまさに神のお慈悲ですな。」
 弁護士は法的な文書を一部トニーに手渡し、ガラス窓のところに持っていき子細に読むよう促した。それは驚くほど気前のいい貸し付け契約で、この貸し付けを受けられれば、トニーはこれまでの借金を返済できるのみならず、千元ほどの中国銀元を手元に残して生活費に充てることができるのだった。借金の返済期限については、相手の彼に対する配慮は大変行き届いており、契約条項の中に大きな抜け穴を作ることによって、彼がこの世に生きている間は返済など余計な心配はまったく要らないように保証されているのだった。
 玉婕はちょっと身体を動かし、楽な姿勢で座れるようにした。大金は消え去ったが、憎しみもこれで終わる。なかなか得難い満足感であった。
 トニーは書類を何度も読んでは首を横に振り言った。「女王の政府は断じてここまで寛容ではありえないし、私には、わざわざ金を天津の海河に捨てるようなマネをする、そんな愚かな友人はいないんだよ。」彼は腕を上げ、あごを少しそらせた。どうやら、ひとしきり「ヴェニスの商人」風の問答でもするかのようだ。
 弁護士は彼の気分の盛り上がりを忙しなくさえぎって言った。「こちらのレディのご好意ですよ。しかもお金はすでにお支払い済みです。」
 玉婕はすぐさま言葉をはさんで釈明をした。「私個人の財産です。先生を助けたいと思って。君石とは関係ありませんし、今後、彼がこの件を知ることもないでしょう。」弁護士は彼女のシナリオどおりには演じてくれない。まだお膳立てができていないのに、玉婕の役割を明かしてしまうとは、あまりにも意外な展開ではないか。これではまるで脅したりすかしたりの陰謀じみている。
 弁護士は大きなカバンを脇に抱えて去ってゆき、テーブルにはあの魅惑的な融資の契約書が残されている。
 トニーは居間の狭い空間を行ったり来たりし、血が滴るかのように顔を紅潮させている。「君はまったく可愛らしいレディなのに、恐るべき悪友なのだね。」彼は歩みを止めることをせず、足取りはますますヨタヨタと覚束なくなった。
「私は先生を崇拝しておりましたし、良い学生でもありました。まさか忘れてはいらっしゃいませんよね。今夜は先生と私の師弟共演の芝居がありますでしょ。」玉婕は懸命にトニーの注意力を分散させようとした。彼の張りつめた神経が弛んでくるように願って。
「君はなんて恐ろしい人だ。私を崖っぷちに追いつめておきながら、それでも一緒に『ロミオとジュリエット』を演じようとするとは。今夜の演目は変更だ。」
「ご指示のままにします。どうあろうと、あなたは私の先生ですもの。」
 玉婕の声は軽やかで、無意識に笑みさえ浮かべている。二人の間で主導権を握るとは、なんて心地のよいことなんだろう。でも、どうして君石の前だと自分の心は縮こまってつらくなるのだろうか。今は自分にそういう問い掛けをしている場合ではないのだが……。
 突然、誰かが扉を強くたたいた。どうやら客は入り口の黒板に書かれた英語が読めないようだ。
 いきなりドアから突き出されたのは朱塗りのおかもちで、その後に続いて、白い前掛けをした若い丁稚が姿を見せ、入ってお辞儀をして言った。「料理のお届けだよ。領事様にって。」
「誰が頼んだの?」と玉婕は聞いた。
「分かんねえ。男の人だったけどね。」丁稚小僧はすらすらと答えた。
 どういうことだろう? 玉婕は不思議に思った。もし上流階級の人がトニーに付け届けをしてきたのなら、その人はきっと今夜の舞踏会が立食式だと知っているはずだから、こんな時に料理を配達させるなんて滑稽なことではないか。
 トニーもいぶかって傍にやってきた。
「手紙もあるよ。領事様あてに。」と小僧は袖カバーから一通の封筒を取り出し、トニーの前に差し出した。
 封筒の中には一枚の便箋だけが入っており、小切手がはさんであった。玉婕はハッと気づいた。手紙を読むトニーはまるで脳卒中で倒れそうな様子で、顔にはグラスの酒をかけられたかのような汗が噴き出し、青黒い色が額から首にかけて広がり、手はブルブルと震えている。
 便箋はトニーに握りつぶされ、小切手は玉婕の面前に突きつけられた。それは横浜正金銀行の小切手で、銀二万元ちょうどと書いてある。振出人の印鑑は屋号になっているが、まさに君石の秘密口座であることを玉婕は見て取った。
 トニーが諸手を高く振り上げると、ちぎれた便箋が蝶のように室内に舞い散った。「君のあの恥知らずな愛人に伝えろ。このトニーは賄賂など受け取ったことはないし、なおさら脅しなど恐れはしないとな。どんな悪辣な手段でもやってみるがいいさ。」彼は天性の好い声を持っていて、悲劇にはおあつらえ向きなのだった。
 玉婕の気持ちはガックリと落ち込んだ。まさか、そんな? 彼女は気ぜわしく小僧に聞いた。「どんな料理のお届けなの?」
「へえ、犬肉の醤油煮込みでございますよ。」そう言いながら、彼はおかもちの蓋を開けた。
 玉婕は慌てて眼を固く閉じた。そして突然、ガブリン夫人の叫び声を聞いた。お仕舞いだわ!玉婕は心中、愕然として悲しみに沈んだ。自分のすべての努力と心血注いだ結果がこの野蛮な料理でぶち壊しになったのだ。子犬のモリエールは煮られて料理になってしまった。君石のしわざだろうか? あんなに優雅で礼儀正しい人が? ねえ、自尊心を勝ち取ろうとしてきた私の努力を、あなたはこんなふうに踏みにじろうというの?
 ところが、次に彼女が聞いたのは、ガブリン夫人のしどろもどろの「うわごと」めいた言葉であり、なんとうれし泣きで感情がこみ上げているようなのだ。彼女は目を見開き、二尺ほどの白磁の大皿に躯を丸めて寝ている「モリエール」の姿を見た。頭の前にはダイコンで細工したきれいな花まで飾られ、安らかに犬の夢を見ているのだった。
 彼女はついに堪えきれずに泪を流した。
 小僧は愛想よく彼女に言った。「心配いらねえだよ。おいらが昼に焼酎を飲ませといたんだ。そうでなきゃ、皿に入れるのに格好がつかないからね。あの旦那がこうしろと頼んで金をはずんでくれたのさ。こちらの旦那もこれを見たら、きっと喜んで褒美をくれるって言われてね。」
 玉婕は彼に一元のチップを渡した。彼女のすべての計画はおじゃんにされてしまった。トニーはこんなやり方には激怒するにちがいない。イギリス人は世界で最もしつこい困った性質を持っているのだから。