翻訳発表

 この小説は、毎週土曜日午前の「小説を楽しもう!」クラス(2014年4月~6月)で講読し、授業で翻訳したものを講師が訳文を整えまとめたものです。この度、著者の龍一さんから特別に翻訳許諾を頂戴し、学院のホームページに発表できることになりました。一九二〇年代の天津租界から始まり、激動の時代を背景に愛を貫こうとした美しいモダンガールの生涯を活劇風に描いたこの小説を、たっぷりとお楽しみ下さい。
(原文は文芸誌《人民文学》2013年11期所収)

【作者紹介】
龍一:1961年、天津生まれの人気作家。中国作家協会会員。長年にわたり、中国古代生活史や近代都市史、中国革命史を研究し、その博識をベースに抗日戦争の時代を背景にしたスパイものなど、スリルと迫力のエンターテイメント小説を数多く発表し、映像化された作品も多い。ご本人によれば、日本の小説が好きで、多くの示唆を得たという。

*担当講師:樋口裕子 
*受 講 者:大谷恵吾、小林利江、紺野史子、三枝博、中村友彦、山下章の各同学

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モダンガール・エレジー(原題:新女性的挽歌)  作者:龍 一
【第5章】

 玉婕(ユイジエ)が帰宅したときは、すでに午後五時を回っていたが、なんと部屋いっぱいになるほどの人が彼女を待っており、奥様、奥様と呼ぶ声がひっきりなしに飛び交う。その者たちは皆、玉婕の身支度を手伝うために君石が依頼したのだ。舞踏会に参加することは一大行事であり、髪型も身につけるものたいそう手間がかかるのだが、君石はどうやらそんな面倒をむしろ好んでいるふしがあるのだった。支度を手伝うこの人たちに苦しめられている彼女の姿を見て、彼はその様子を楽しんでいるのかしらと、時に玉婕は疑いたくもなるのだった。
 トニーの事を面と向かって彼に問いただすべきだろうか? やっぱり聞かないほうがいいだろう。君石はたぶん気まずさから怒りだすのではないか。それに彼が一歩家を出て外で何をしようが、二人の間ではその事は話題にしてこなかったのだから。彼女は自分のためらいをうらめしく思った。
 「モリエール」の件は彼がしでかしたのだろうか。彼女は自分の判断に疑いを持った。誰かが彼女の顔に野菜の栄養パックをたっぷりと塗り、美容師が彼女の頭を好き勝手にいじりまわし、爪もまた精巧な「責め具」を使って痛めつけられているところ。だが彼女は気もそぞろで疑念にとらわれていた。思いやりがあって優しい君石があんなに残忍になれるだろうか、と信じられない気持ちなのである。自分は目にしたことのすべてを軽率に信じすぎるのではないか、そして数年来の彼に対する信頼をいとも簡単に捨て去ろうとしているのではないかと不安がつのってきたのだ。
 君石(ジュンシー)は商売人であり、断じてならず者ではない。せいぜい「モリエール」の件は単なる悪ふざけにすぎないはずだ。自分は決してかばい立てする気はないのだから、なおさら君石を問いつめる必要もないと彼女は考えた。だが、トニーの事はうまくいかなったが、自分の事はどうすべきか? 舞踏会に行ってから打ち明けるなんてできないだろう。
 今朝電話をしてきた不動産仲介業者は先週、彼女のために部屋を借りる手続きを済ませ、必要な物はちゃんと取りそろえてあったので、いつでも引っ越していくことはできる。この上、何を待つというの?――まさか、あなたは本当に虚栄に満ちた生活が好きでたまらず、この贅沢な暮らしの中に輝かしい青春をムダにするというんじゃないでしょうね。――彼女の思いは今セットしている髪のように千々に乱れるのだった。
 いいえ、そんなのどうでもいいことよ! 彼女は心の中で自分に向かって大声で叫んだ。一番大事な問いを自分はずっと避けてきた――あなたは君石を愛しているの?
 愛している、愛してない? もし愛してないなら、あなたは今さっさと消え去って、舞踏会なんてほっとけばいいのよ。あるいは、このまま豊かな暮らしを楽しみ、ちやほやされるだけの理由はあるはず。だけど、もし彼を心から愛してしまったとしたら、事は複雑になる。あなたは彼を愛していないのよね。ただ彼と一緒にいれば快適なだけ。でもそれは愛じゃない。愛してはいけない! 彼女は自分に命じた。
 玄関のベルが鳴り、君石が帰ってきた。ずいぶんご機嫌な様子で、背後にはニコニコと笑みを浮かべて腰をかがめたユダヤ人の宝石商を従えている。彼はこの家の出入りの商人で、君石はおそらく彼の最上のお得意さまなのだろう。
「アクセサリーを出して、奥様に見せてあげてくれ。」君石は意外にも煙草に火を点けた。彼は玉婕のために禁煙して、すでに二年になるのだが。
 宝石商の大きな革カバンにはビロードの箱が幾重にも詰まっており、彼は一つずつ取りだして並べた。それらはすべてセットになった正装用のアクセサリーで、ダイヤモンド、真珠、ルビーにサファイヤだった。玉婕の顔に塗ったパックはもうほとんど乾いていたが、彼女は身を起こしてアクセサリーを見る気がしなかった。それらの宝石が美しく輝くほどに玉婕の内心の孤独がいやおうなしにかき立てられるのだった。
「あなたが選んでくださいな。私にはちっとも分からないわ。」彼女は少し首をかしげて、不都合だという仕草をしてみせた。
「今日は特別、君が決める番だよ。手にした権利を捨てちゃいけない。人間の自由と自尊心は金を使うときにだけ見えてくるものなんだ。」君石はいささか気持ちが昂揚しすぎていて、酒が入っているかのようだ。
「私が決めていいなら、いっそ……」実は彼女は全部要らないと言うつもりだったのだが、自分のアクセサリーがすでに全部ラビノビッチ老人の店に質草となっていることを、ふいに思い出した。今夜のような盛大な舞踏会に、もしアクセサリーを付けずに出席すれば、身に一糸もまとわぬよりもずっと君石に恥をかかせることになるだろう。
「そのサファイヤのネックレスを見せてちょうだい。」彼女はフッと息をついた。幸いにも自分にはまだ臨機応変に振る舞うだけの能力があったのだ。
 今日届けられたアクセサリーは、いずれも華麗で高価という基準を満たしており、それは君石にとっては必須の条件なのだった。だが、君石が彼女のために選んだパールグレーのイブニングドレスに合わせるとなると、いささか見劣りがするところだ。自分がこの家にいるのもあとどれくらいか、はっきりとは言えないが、今夜くらいは君石を喜ばせてあげるのが筋というものだ。
 パックを洗い流すと、顔の皮膚はしっかりとハリが出て、とても気持ちがよかった。そこで彼女はもう一度アクセサリー類をよくよく見直したが、最初の印象は間違ってはいなかった。どれも上等ですばらしい物だが、彼女の好みとは、いまひとつ隔たりがある。本来なら、コロンビアのエメラルドならちょうどあのドレスに似合うのだけれど、持っていた数点のアクセサリーは、今日の午後全部質に入れてしまったのだ。
「おや、まあ、私としたことが、何でまたこれを持ってきてしまったのか。まったく忌々しい、とぼけたことを!」宝石商はわざと人を驚かすような言葉遣いで、革カバンを凝視したまま叫んだ。それはまるで人の関心を引こうとする脇役のようである。皆の注意は案の定、彼に向けられ、君石は傍らでまた一本煙草に火を点けた。
「出して見せておくれ。」皆が声を揃えて言った。まるで舞台裏の合唱隊ように。
 ユダヤ商人は赤面し戸惑う様を演じ、肩先からヒゲの尖端まで縮み上がらせてブルブルと身体を震わせ、実にみものだ。彼はモゴモゴ口ごもりつつ言った。「こちらは別のお客様のご予約の品でございます。」
 大きな宝石箱の蓋が開けられ、淡い青色のビロードのクッションに、エメラルドの夜会用アクセサリー一式が載っている。――ネックレスが一本、イヤリングが一対、髪留めが一つ、どの宝石もソラマメほどの大きさはたっぷりあり、その色の美しさといったら、近寄り難くさえある。
 周りの者たちは、まるで空で轟く雷のように驚嘆の声を上げたが、気を利かせてその場から退いた。このような品物は、よほどの運がないかぎり、貧乏人には目の毒なのだ。
 君石はイヤリングを一つ手に取り自分が付けるマネをして、玉婕に言った。「どうかな?」
「私の肌はあなたみたいに白くないわ。」玉婕はちょっと微笑んだが、今日の君石は確かにどこかが変だった。
「どう見ても、様になるのはこのセットだけだな。君、決めたかい?」君石は辛抱強く彼女の意見を聞いてくれる。
 ところが宝石商は手を左胸に当てて高らかに吟唱するのだった。「わが主よ! このような品をお気に召さないのであれば、奥方様にはどんな宝石がふさわしいものやら。これはインドのあるマハラジャの秘蔵品でしたが、不幸にも破産したので流れ出たもの。本来なら今夜の汽車に乗って上海に向かう予定でございました。いかに極東広しといえども、おそらくこの宝石を付ける資格のあるご婦人はハードン夫人だけでしょうな。」彼の力強い講釈は、むしろ聞く人を深く感動させるのであった。
 同居して三年、玉婕は誰よりもよく理解していた――絶対に君石に恥をかかせてはならないし、ましてや彼の興趣をそぐようなことはできない。特にこういう時は、彼女がそのアクセサリーが全然気に入らなくてそうすべきなのだ。こんなに粒の大きい宝石は、年を重ねた老婦人にしか似合わないのだったが。
「とりあえず今夜だけ付けてみましょうか?」彼女は君石とささやくように話しかけた。
「君はほんとに可愛い人だ。いつもこんなときは、胸が痛むほど愛おしくてたまらなくなる。」君石の目の遙か遠くで泪の光がきらきらするように見えたが、玉婕はきっと自分の見間違いだと思った。
 こんなふうにずるずると引き延ばしていたら、分かれることなんてできやしない。玉婕は背を向けて、自分の人の良さを呪った。軟弱な人間は、一生他人の言うままになるよう運命づけられているのだ。