翻訳発表
この小説は、毎週土曜日午前の「小説を楽しもう!」クラス(2014年4月~6月)で講読し、授業で翻訳したものを講師が訳文を整えまとめたものです。この度、著者の龍一さんから特別に翻訳許諾を頂戴し、学院のホームページに発表できることになりました。一九二〇年代の天津租界から始まり、激動の時代を背景に愛を貫こうとした美しいモダンガールの生涯を活劇風に描いたこの小説を、たっぷりとお楽しみ下さい。
(原文は文芸誌《人民文学》2013年11期所収)
【作者紹介】
龍一:1961年、天津生まれの人気作家。中国作家協会会員。長年にわたり、中国古代生活史や近代都市史、中国革命史を研究し、その博識をベースに抗日戦争の時代を背景にしたスパイものなど、スリルと迫力のエンターテイメント小説を数多く発表し、映像化された作品も多い。ご本人によれば、日本の小説が好きで、多くの示唆を得たという。
*担当講師:樋口裕子
*受 講 者:大谷恵吾、小林利江、紺野史子、三枝博、中村友彦、山下章の各同学
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モダンガール・エレジー(原題:新女性的挽歌) 作者:龍 一
【第6章】
英国総領事館官邸の庭は、租界の中で最も美しい庭園として早くから評判を取り、代々十数人の領事によって50年の間、管理されてきた。彼らが庭造りに注いだ心血は公の業務を行うことにまったくひけを取らぬほどであり、それはグレート・ブリテンの民族性なのであった。
この館の主人と握手をするとき、玉婕(ユイジエ)は四方八方からの眼差しがみな彼女のネックレスとイヤリングそして髪留めに注がれるのをはっきりと意識した。そのため、彼女の胸のうちに自然とそれなりの満足感が芽生え、トニー・ガブリンのしかめつらしさもさほど苦にはならなかった。ましてや君石(ジュンシー)は領事夫人と大変親しい様子で、手を取り合って熱心に話をしている。
ダンスの曲が流れてきた。米軍第十八輸送部隊のオクテットが天津最高の楽隊であり、臨時にしつらえたクヌギのダンスフロアでは、きらびやかな衣装とおびただしい数の宝石が旋回し始めた。パンパンというシャンパンの栓を抜く音が音楽の中に入り交じり、むずむずと待ち遠しい気分を盛り上げ、焼き肉類を提供する屋台の辺りからは黒胡椒のいい香りが漂ってきて、人々の食欲を大いに刺激している。男たちはほとんど一人残らず絶え間ない話に興じており、恭しく挨拶を交わしている。女たちのほとんどは、ほかの人のドレスやアクセサリーをまじまじと見つめ、値踏みをしたり、その出所を推測したりしている。
君石が目立つテーブルを選び、玉婕を伴って座るや、各大手洋行の大班(タイパン)と買弁たちが挨拶にやってきて、君石が英国領事から受けた不公平な待遇に同情を示し、また彼の飛行機の商売が大成功したことに祝いの言葉を述べたりした。このように人が入れ替わり立ち替わりして、舞踏会の会場に小さな渦を造りだした。東北軍とソ連軍の開戦により、彼が行った身の程知らずな戦闘機の取り引きは伝説になっている。今や誰もが張学良の尻馬に乗って商売を展開しているので、トニー・ガブリンの君石に対する「迫害」は、荒野を切り開いた英雄の地位に彼を祭り上げることになったのである。
今夜の君石はずいぶん気分が昂揚していると玉婕は感じた。手も目も慌ただしく働かせて挨拶し、口はよどみなく冗談を言っている。この場を行き交っているのは皆、租界では有名な大人物ばかりで、彼女のコラム「著名人」の常連なのであった。ビジネス界は最も利を見るに聡い。これほど多くの租界内外の主だった人物が彼に挨拶にくるのは、君石の今日の地位がいよいよ重要になったということを物語っていた。
「ご心配なく。領事閣下は心根のやさしいご老人ですから、私を逮捕しようというのも他の人への脅しにほかなりません。本気にしていませんよ。」君石は相手の戸板のように広くてぶ厚い背をポンと軽く叩いた。その言葉の端には笑いが混じっていたが、相手の方は熱意を込めて彼を抱擁した。この太古洋行の支配人はツキノワグマのような体格をしている。
朝鮮銀行の買弁は麻の茎のように痩せた身体に、シルク混の麻の長衫(チャンシャン)を着て、君石と互いに拱手の礼をし、その上また握手をしたまま小声で言った。「あんまり連中に大きな顔をさせないほうがいいですよ。ああいう間抜けな支配人は洋行の勢力を笠に着て偉そうにしているが、実際のところは外国人に使われている丁稚にすぎない。財産から言えば、きっと、あなたの部下の二番番頭にも及ばないでしょうな。」二人は顔を見合わせて大笑いした。
豪華な衣装と宝石で着飾った奥方や令嬢が突如ドッと押し寄せ、玉婕を拉致するように隅に連れていった。「鄭(ジョン)さん、今日はどんなお芝居を見せてくれるの? 春から今日まで、私たち半年以上待ったのよ。待ちこがれて死にそうだったわ。前回の『女房学校』はすっかり笑い転げちゃったけど、今度の演目は何かしら……」視線と指先はいずれも玉婕の首周りと耳に付いているエメラルドに飛んでゆき、玉婕は花粉症になったみたいに居心地が悪くなった。
夜のとばりがひっそりと下り、丈の高い糸杉と色とりどりの電飾がついた低い植え込みに灯りが光り輝いている。川面に湧き上がった湿り気のある空気が、堤防を越えて、人々のドレスや様々なスタイルの髪にまで忍び込んできた。依然として暑く、どの人の顔もいきいきと楽しげな熱い汗をかいている。
ラビノビッチ老人と孫が近づいてきた。慎み深く穏やかな態度である。若いラビノビッチが玉婕にダンスを一曲申し出て、ラビノビッチ老人もなんとなく君石の近くに腰掛けた。
これはまずいことになった。アクセサリーを質に入れたことは彼女が自分で君石に言わねばならなかった。玉婕は「ごめんなさい。私、スイングは踊れませんの。」と言って、君石のそばに戻り腰掛けた。ところがバンドが奏ではじめた曲は、ヨハン・シュトラウス一世のワルツであった。
朱家の姉妹の出現は、大勢の人の中にちょっとした波紋を引き起こした。姉妹はそろって東洋の雰囲気たっぷりのイブニングドレスを身にまとっている。それは、年とともに風変わりな度合いを増してゆくフランス人デザイナー、ポール・ポワレの作品であることが、遠目にもすぐに見て取れた。女たちは今度は姉妹の方にドッと押し寄せていき、玉婕はお陰でほっとひと息つくことができた。
君石は会場をあちこち移動しているウェイターの盆からシャンパングラスを二つ取って、彼女に尋ねた。「僕たち、もうどれくらい一緒に踊ってないのかな。」
「先回の舞踏会は、今年の一月十七日だったわ。」玉婕は記憶力がとてもよかった。
「なんてことだ。もう八か月も一緒に外出していなかったのか。」そんな迂闊さは許されないことだ。彼女が彼のもとを去ろうと考えるのも無理はない。君石はしきりに自分を責めた。
「あなたの仕事が忙しすぎるから。」玉婕の語気の中には珍しく恨みっぽさがあったが、心中は後ろめたさでいっぱいだった。二人はもう八か月も愛を交わしておらず、君石がどれほど求めているか彼女にはよく分かってはいても、彼のもとを去るという考えが浮かんでから、そのことができなくなったのだ。
君石は身を起こし、玉婕の手を取って誘った。バンドはアメリカの一番モダンなミュージカル「ショー・ボート」の曲「Why do I love you?」を演奏し始めた。それは玉婕の大好きな曲だったから、きっと君石のお膳立てに違いないと思った。
「あーら、あなた方ここに隠れて内緒話をしてたのね。」ふいに小丁が登場した。手にしたグラスには氷しか残っていない。スコットランド人の恋人は彼女の後ろに付き従い、おとなしい犬のようである。
「今日はまだ私と踊ってくれてないわね。」小丁(ショオディン)はグラスを恋人の手に押しつけ、ぐいぐいと君石を引っ張って連れていった。
この人はいつもいいところを邪魔してくれる、と玉婕はお手上げ状態だ。
スコットランド人は彼女に言った。「鄭さん、総領事閣下があちらにお出でくださいとのことです。ついでに、演目を『リア王』に変更してよろしいかとお尋ねです。」
「どの場面に?」
「『荒野』の場面をと。」
玉婕はうなずいた。それはリア王が娘たちの薄情さを痛烈に非難する場面であり、おそらく彼女にその道化の役を演じさせようというのだろう。あるいは、トニーはすでに情にほだされ、彼女を手厳しく叱責しておいて君石を許すのかも知れない。このとき、彼女は、このイギリス人の先生が結局は誠実な紳士であってくれるように、ひたすら祈るのだった。
トニーはリア王を演じている。
「ここにこうして立っているわしは、お前たちの奴隷にすぎない。哀れで、衰え弱った、無力な、人に蔑まれる老人だ。だが、わしはそれでもお前たちは卑劣な回し者だと罵ってやる。お前たちは天上の威力をむやみに用いて、二人の邪悪な娘たちと手を結び、白髪頭の老いさらばえたわしに刃向かうのだからな。ああ、ああ、あまりにもむごいではないか!」
芝居は大成功に終わり、女たちは舞台に押し寄せ、一輪の花を捧げ持ってトニーを取り囲んだ。このとき、まさに彼は彼女たちのアイドルであった。
玉婕はこの凄まじい勢いにはね飛ばされ、ちょうどよい具合に君石の腕の中に落ち、二人の指はきつくからみあった。彼女の心は激しく揺らいでいた。胸が痛み自責の念にかられる。リア王が娘を痛罵するのは、まるで君石が彼女を責めるのと同じだ。彼女は自問するのであった。――あなたがトニーに気前よく振る舞ってやったのは、君石があなたの身体をがんじがらめにしている蜘蛛の糸を取り外すために、彼の金銭でもって彼の恩義に仇で返すことにほかならないのよ。それはまさに希望の見えない闘い。金銭を捨てるという手段で自分自身の救いを勝ち取ることを願い、結局は自分をだますだけのことでしょう。今、あなたはやっぱり元のあなた、寵愛を受けながら、恩義を忘れた愛人だわ。
このとき、トニーは崇拝者たちの包囲を破り、参加者たちに向かって大声で宣言した。――イギリス租界工部局は程君石(チョン・ジュンシー)に対して逮捕命令を発動する。罪名は案の定「利敵行為」であり、イギリスの法律の条項が適用されていた。二名のイギリス人巡査が君石を玉婕の手から奪ってゆき、彼女は空しくなった腕を広げ、さっきまで君石におもねっていた租界のお偉方を前にして泣くにも泣けなかった。そして、このときになってやっと、自分の気持ちにはっきりと気づいた。彼女はとっくに程君石を愛していたのだ。しかも心の底から。
その後には、トニーの辞職の弁が続いた。彼はイギリス駐天津総領事の職務を辞したのである。三か月後、トニー・ガブリンはシンガポールの税関に着任し、同時にすぐさま現金でマレーシアに巨大なゴム園を購入した。彼は舞踏会当日に程君石と玉婕がそれぞれ渡した小切手を現金に換えていたのたが、それでも程君石を監獄に送り込んだのであった。その後、一九四四年八月、ガブリン夫妻は日本軍のチャンギ収容所で伝染病により相前後して死去した。